原作『十字架』(重松 清 著/ 講談社文庫)との出会い
〇五十嵐監督:今日この教室のドアを開けたら、真正面に新井一先生のパネルがあって、大変懐かしく思いました。
僕が教わっていたのは大学生の時で何十年も前のことです。僕の先生は、新井一さんとジェームス三木さんです。
ジェームス三木さんから教わったことで今でも覚えているのは、「最初の柱の○を書いたら、必ずエンドマークまで書く」ということ。アタマ書いたらケツまで書く。途中で嫌になったり止めようとしても、とにかく最後まで書く……これだけは覚えています。
僕は「脚本・監督」に憧れがあって、なんとか自分で脚本・監督ができないかと思っていました。共同脚本でも構わないんですが、シナリオはよその人には任せられない。映画監督というのは、自分で脚本が書けないと監督はできない、というのが持論です。
今回の重松清さんの原作は5年前に遡ります。本屋で平積みになっていて、装丁がいいなと思って偶然手に取ったんです。イジメの話だなんて全然知らずに、家に帰って夜中に読んだら、なぜかわからないけれども涙がボロボロ出てしまった。この原作を映画にして一般の観客に届けたら、僕と同じように涙を流す人がいるんじゃないかと直感しました。
一番すごいなと思うのは、「共感」です。
それぞれの登場人物に共感できる。映画を観た方はわかるかもしれませんが、イジメ自殺をしたフジシュンという生徒の弟がいますよね。あの弟が大人になって「もし僕が天国に行ったら、兄貴をぶん殴ってもいいですよね?」と言う。そのシーンなんか、とても共感できます。
最初に僕ができることは何かというと、脚本を書くしかない。
それと同時に、自分で資金調達の筋道をつける。劇場用の映画は今回で10本目ですけれども、10本とも全部、自分で企画を立ててお金も引っ張ってきて、自分で監督をしています。
僕が映画化したいと思う作品は、よそから見るとマイナーなので、なかなか企画が通らない。どこに持っていっても通らない。
今回の『十字架』も相当数の映画会社やプロダクション、テレビ局に持って行きましたが、全部ダメでした。「震災があって世の中が暗くなっている中で、イジメの映画なんて誰が観るんだ?」「暗いのはコリゴリだ」「明るいエンターテイメントが求められているから、これは無理だ」と言われました。
何度も言われるとつらい。酒が進む、家族が泣く(笑)。どうしようもない状況でした。
それでもたったひとつ自分ができることと言えば、作品に近づくこと、つまり脚本を書くこと。ホンを書くと、なんとなく気が晴れる。何かやっている感じになる。
それと同時に、イジメを調べ始めました。図書館に通って、本や新聞でこの2年間のイジメ自殺事件について調べるわけです。そうすると腹の中で醸成していく。そうして脚本を書いていく。
一流の作家の作品を脚本にするのはすごく難しいですね。今回は特に、20年にわたる物語を2時間にしなければならなかった。ちょっとずつ摘まむだけではダイジェストであって、作品にはなりません。大きい手術をしなければならない。
原作者が何と言おうが、映画は自分の作品であるから、自分の思うように書く。その代わり、その作品の幹は触っちゃいけない。枝とか葉っぱを映画用に直す。
プロダクションに行って断られて、家に帰ってシナリオを直す。また断られて家帰ってシナリオを書く。ある大きい映画会社では取締会まで行ったんだけど、最終的にダメでした。
悶々として2年間過ごしている間にも、どんどんイジメ自殺で中学生が死んでいく。これって一体何なんだろうって……。