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小説家になるためには /浅田次郎さんが語る創作者と創作

2015.12.13 開催 THEミソ帳倶楽部「新井一生誕百年記念講演・浅田次郎さん編 創作者と創作」
ゲスト 浅田次郎さん(小説家)

シナリオ・センターでは、ライター志望者の“引き出し=ミソ帳”を増やすために、様々なジャンルの達人から“その達人たる根っこ=基本”をお聞きする公開講座「ミソ帳倶楽部 達人の根っこ」を実施しています。そのダイジェスト版を『月刊シナリオ教室』(今回は2016年6月号)よりご紹介。
2015年12月23日に永田町の星陵会館で開催した「新井一生誕百年記念講演」。ゲストは小説家の浅田次郎さん。「小説」「脚本」のジャンルの垣根を越えて、創作者としてどのように創作と向き合っていけばよいのか、大ベテランの浅田さんにお話いただきました。小説家志望のかたは「小説家になるためには、こういうこともきちんと考えないといけないんだ!」と感じることが沢山あると思います。ぜひご覧ください。

文章で身を立てていこうと思うなら“朝型”で

小説家になろうと思っているかた、結構いらっしゃるようですが、小説はいいですよ、1人でできるから(笑)。

脚本家が大変だと思うのは、ご自分で書いたものがそっくりそのまま映像になるわけではない、というところです。監督やキャストの意向などもあって、こうしてほしいとか直しながらやっていくので、そこで納得できないと思う方もいらっしゃるでしょう。脚本も自分の創作物ですからね。

小説家の場合は、確かに出版される前段階においては、編集者と色々やりとりをすることはあります。校閲で赤が入ることもあります。そこで直すこともありますが、結果的には自分の書いたものがそのまま本になる。自分1人でやっていると思っていいんですね。

今は門戸が広くて、新人賞がものすごく多い。小説の新人賞といわれるものは全国で200くらいあります。

勘違いしてもらって困るのは、このうちのひとつを取ったからといって小説家になれるわけじゃない。ところが、ほとんどの人はそれで小説家になったと思い込む。これは小説家になるスタートラインについたというだけなんです。

そこからは、どれだけいいものを書けるかに懸かっています。才能のあるなしはほとんど関係なくなります。努力です。働き者でなくてはなりません。これは脚本家も同じだと思います。

よく文筆で身を立てている人たちの志した動機に「自由業」という甘い言葉があります。会社に行かないで朝寝てていいんです(笑)。自分で時間管理をしていい。

とても魅力的ではあるんですが、普通のサラリーマンを勤め上げられない人ができるのかというと、絶対と言っていいほど無理です。自分の責任に懸かっていますから。自己管理が、他者から管理されることより簡単であろうはずがない。

「会社に9時に行くために7時に起きる」というのはできる。ですが、「何時に起きてもいいけれど7時に起きる」というのはむずかしい。ですから自己管理のできない方は、文筆業は大変だと思ってください。

昼型のタイムスケジュールをひっくり返して夜型の仕事をするというのは構いません。ただし小説家の場合、淘汰されて生き残ったプロの作家の傾向を見ますと、実は昼型の方が多い。

私は、夜型の人をほとんど知らない。かなり少ないと思います。私自身はまったくの朝型です。夜明けとともに起きます。

皆さんも文章で身を立てていこうと思うのでしたら、朝型でやってください。

人間は昼行性の動物ですから、夜より昼の方が頭がよく回転するに決まってるんですよ。夜型の人というのは、それまでの自分の生活習慣を引きずっている。深夜のテレビ番組ばかり見て育ったとか、夜遊びしてきたとか、そういう生活習慣があるから夜に頭が冴えるだけであって、本質的にはやっぱり昼間です。

だから皆さんの頭も朝型に適応させていった方がはるかに得で、もちろん体も楽です。朝型の有利な理由は、夜に人とご飯を食べたり酒を飲んだり、どんちゃん騒ぎをしたときに、仕事がつぶれないこと。

夜型は、酔っ払っちゃったら仕事ができない。昼型なら、寝れば翌朝から仕事ができます。有利なんです、どんちゃん騒ぎは昼間にはやりませんから(笑)。これは簡単なことなんだけれども、盲点になってます

夜ずっと起きていて得なことって、そうないと思う。静かだということ、宅配便が来ない、電話がかかってこないことは利点としてあります。でも仕事が忙しければ電話に出なければいい。宅配便が来ても居留守をすればいい。社会的には迷惑行為かもしれませんが、こちらはモノを作ってるんですから。

読書は娯楽

私のスケジュールは、朝は夜明けとともに起きる。そして午前中に自分の仕事を終わらせる。原稿を書くのは昼間です。遅くとも午後1時には終わらせて、その後は本を読みます。

本は読み続けてください。今まで読書習慣がなかったかた、いらっしゃると思うんです。脚本を志している方は、テレビなどのメディアで育ってきて、自分でもやってみようという気になった方が多いと思います。

でも、言葉を生業にする以上、読書習慣は不可欠です。ただ、これは回復できます。

今まで読書習慣がなかった方というのは、ハンディを背負ったと思ってください。でも取り返せますから、今日から本を読むようにしてください。他にお仕事を持っている方も多いでしょうから、そんな時間はないと思うかもしれませんが、時間は、あるなしではない、作り出すものです。

私は、自分で勘定したことはありませんが、年間に300冊は本を読みます。外出している日はつぶれるとしても、1日1冊は読む。別にむずかしいことではありません。テレビもラジオもなかった時代は、1日1冊は誰でも簡単だったんです。

人が読むスピードは、1時間で原稿用紙100枚。実は、誰が読んでもそうなんですよ。ということは、ちょっと薄めの単行本だと大体原稿用紙400枚分入ってます。4時間で読めるはずなんです。

私の小説で薄めの本というと『鉄道員(ぽっぽや)』とか『地下鉄(メトロ)に乗って』とかね(笑)。あの辺は4時間。誰が読んでも4時間。

「じゃあなんで私は1日1冊読めないんだ?」と思いますね? 読むのが遅いんじゃなくて、1日4時間の連続した読書時間を持っていないだけなんです。本は読んでいるはずですよ、皆さんも。

ところが、1冊に3日も4日も1週間もかかっているわけです。「チョコチョコ読み」している。30分ずつとか、電車に乗ってる間だけとか。そうじゃなくて、毎日決まって1時間の読書時間をとれば、2日とか3日で1冊は読めるはずです。

これを勉強だと思ったら続かない。誰だって勉強するのは嫌だから。僕だって嫌ですよ。面白いから、読む。娯楽。

この「娯楽」っていう言葉を忘れないでくださいね。モノを作る人に一番大切なのは、娯楽を作り出すんだという気持ちです。

芸術は必ず大衆のものでなくてはならない。
娯楽でなければならない。

小説の世界には、「純文学」と「大衆文学」という不思議な区分けがありましてね。区分けとしては正しくないんです、世界中のどこにも、この区分けをしている国はありません。

「短編小説」と「長編小説」は必ずあります。作家も分かれていて、長編向きの資質の人と、短編向きの資質の人がある。

わかりやすく言うなら、陸上選手の筋肉のつき方と同じ。マラソンの選手で筋肉隆々な人はいないでしょ?

ところが100メートルの選手はみんな筋肉隆々です。それと同じように、短編を書く人と長編を書く人では元々の脳みその形が違うんじゃないかと思います。私はそれがごちゃごちゃなので、両方書くんですけれども。

短編長編の区分けは世界共通なのに、純文学と大衆文学というのは他にないんですよ。皆さんは、あらゆる芸術表現の分野におけるこの考え方を、まず取り払ってください。

芸術とは、あえて定義をするなら、僕らが目に触れている天然・自然の人為的再生産だと思います。天然の桜の美しさを、人の心を通していかに表現するか。これが芸術行為です。天然にはかなわないんですよ、どう表現しても。

ところが、人の心を通すことによって違うものに生まれ変わる。そういうことができるのが芸術ですね。文章芸術というのは、それを言葉でやろうとする分野のことです。

この芸術というのは、どの分野においても、かつては大衆の娯楽でした。モーツァルトのオペラだって、別に王侯貴族に見せていたわけじゃない。王侯貴族がスポンサーになって、それを上演して、国民たちに見せていたんです。だからあれは大衆芸術なんですね。

ヨーロッパに行くと、教会の中に素晴らしい宗教絵画が貼り巡らされています。絵画のわかりやすさによって心を癒し、宗教を教えるという意味で使われているものであって、神に向いているものではない。大衆に向いているのが、あの宗教絵画というわけです。

すべてがそうです。したがって、純文学・大衆文学という区分けは、芸術論に反します。芸術は、必ず大衆のものでなくてはならない。娯楽でなければならない。
――というのが、私の定義です。

わかりやすい・面白い・美しい

それでは優れた芸術とは何か?
「わかりやすい」「面白い」「美しい」、この3つです。

わかりにくいものってありますが、大体二流です。じーっと考えてわかる、というわかりやすさはあります。ところが、ある一定の教養のある人でなければわからないのは、二流です。

モーツァルトのわかりやすさってあるでしょう? それがモーツァルトの曲かどうか知らなくても、聞いていて心地よい。面白い。ステキ。そう感じるのが一流の芸術品です。後世に残る芸術品は、少なくとも「わかりやすさ」という条件は満たしています。いいものに、むずかしいものはない。

「面白い」も大切。飽きさせない。つまらない映画や小説、いっぱいありますよね。小説の場合は、つまらなかったら途中でやめられる。

ところが映画館でお金を払って入っちゃった時に、いくらつまらないからって途中で出るのは勇気が要ります。損をする感じがするからね(笑)。「面白い」ということは非常に大事なことです。読む人、観る人の欲望を満たすことですから。

どうしたら人は喜ぶだろうということを、いつも考えていてください。それはご自分の生き方の中にもあると思いますよ。私の仲間の小説家の皆さんも、実はそんなに偏屈な人はいないんです。

偏屈な人は……先にお亡くなりになるか、辞めちゃうかのどっちか(笑)。長持ちする人は、意外と気配りをする人が多い。モノを作る人間には、人が楽しめるように、喜べるように、サービスをする精神が大切なんです。

常に享受者の立場に立って、その人がどう受け取るんだろうという気持ちを忘れずに書く。これが、娯楽を与え続けるという正しい気持ちですね。

もうひとつ肝心なのが「美しさ」。芸術というのはわかりやすくなければならない、面白くなければならない、そして美しくなければならない。美というものに関して、人は案外目を背けがちです。

その昔は、美しくなければ芸術ではなかった。ところが時代が下るにしたがって、美しさの描写から離れて、ストーリーテリングの方にばっかり向いていくようになった。そういう進化の仕方をしていますが、やっぱり美しさは大事です。

映像作品では脚本家の領分ではなく、もしかしたら監督やカメラマンが考えることかもしれませんが、その下地は脚本で用意しておくことができる。「美しいものを書くんだ」という意思は大切です。

日本文学は固有の自然描写を持った文学

脚本を書いている時に、季節を忘れていませんか?

季節のない文芸作品は、本来の日本文学には存在しないはずです。日本は極めて特殊な風土を持ち、日本文学は美しい四季の中で成立しました。世界の中でも極めて珍しい、固有の自然描写を持った文学です。

外国の作品を見ても、必ずしも花が咲くとは限りませんし、鳥が鳴くとも限りません。名作の中にも四季のわからない作品は多い。

日本の作品にそれはありえません。どんなに密室の中で原稿を書いていても、決して季節を忘れないこと。鳥を飛ばしてください、花を咲かせてください。月を見てますか?風を感じたことありますか?

日本の芸術にはとても大切な要素ですから、これを失ってはなりません。

僕たちは四季に触れなくても済む生活をしています、マンション住まいでカーテンを閉め切って。マンションは、今は日当りのいい部屋より悪い部屋の方が先に売れるそうですが、四季のある自然と美しい景色を忘れずに、文章の中に反映させるようにしてください。

外国人が日本のものを作ってもうまくいかないということは、先日の国立競技場の件でよくわかりましたよね(笑)。オブジェとして比べてみたら、最初の案の方が造形的には優れてますよ。でもこれを日本の自然の中に置いた場合の違和感。日本にある建築物で、外人がデザインしたものでいいと思うのはまずない。

いつまでも○○ビルと言われ続けている隅田川の向こう側のビール会社のビル(笑)、あれもフランス人のデザインです。日本の風景とはまったく違うから、美しいものには見えないんですよ。そういう固有の風土の中に私たちは生きている。

日本人であることを、文章を書いている以上は、決して忘れないようにしてください。

パソコン書きの盲点:文章がどうしても長くなる

脚本って今でも縦書きですが、あらゆる文字表現が、今はほとんど横書きになりました。理由は簡単で、アルファベットや算用数字が多いから。教科書がまずそうなり、他の出版物もそうなっていった。

小説はさすがに縦書きです。日本語は縦に書くようにできてますからね。パソコンだと関係ないのかもしれませんが、手で書いている人には、最後の一画が自然に次の一画に移るでしょう。漢字でもひらがなでも、そういう流れの中でできているので、字は縦に書くのが基本です。

私はいまだに原稿を手で書いています。別にパソコンができないわけじゃなく、やろうとしないだけです。原稿用紙に万年筆で字を書くのは、とても気持ちがいい。「この気持ちよさを、どうして機械に渡さなければならないか」っていう気持ちで書いています。

パソコンの盲点を申し上げますと、文章がどうしても長くなります。先ほど、日本文学には季節や花鳥風月が必要だとお話ししました。もうひとつ肝心なことがあって、「長く書いてはいけない」というのが日本語の基本です。

どうして短歌や俳句が文学として尊重され続けているのか、皆さん不思議に思うでしょう?それらは日本語の極意だからなんですよ。日本語は、どれくらい小さな文章の中に大きな世界を閉じ込めるかということに勝負がかかっています。これが出来ているのが名文で、出来ていないのが駄文です。

芭蕉の俳句を思い出してみましょう。どの句を取ってみても、わずか三十一文字の中に巨大な風景が入っている。人の心までもが入っています。

「一家(ひとつや)に遊女と寝たり萩と月」……失礼しました。
「遊女も寝たり」でした(笑)。

1文字で大きく意味が違ってくる。この精妙さは、どこの言葉にもないんですよ。「遊女も寝たり」で何が表現されると思いますか?老境が表現されている。遊女を客観的なものとして見て、自分は男として終わっているという、そこまでひとつの物語として描かれてしまうわけです。

何かの折には和歌や俳句を読んでみてください。小さな言葉の中に、必ず大きな世界が入っています。

原稿用紙に手で字を書いていると体に負荷がかかる。そうすると、何とか短く書けないものかと、いつも体に命じているんですよ。そりゃそうです、生産効率の問題ですから。そうすると、ここで初めていい文章が生まれる。

しかしパソコンだと体にあまり負荷がかからないので、パタパタと打って言葉を詰めこんでいませんか?ダメダメ。

自分の覚悟として、最少の文章で最大の世界を作るんだという気迫をもたないと。名文を目指すなら、文章術に関しては語彙の豊富さや感覚の良さはあまり関係ない。いかにして短い文章でコンパクトに言えるか、ということです。

世の中がスピードアップしている割には、パソコンになってから冗長になりました。おそらく会社の企画書なんかも冗長になっているだろうし、私のところに届く手紙にしても、ファンレターですら冗長です。

でも私がペン書き派だって知っているせいか、割と手で書いてきてくださる方が多いのですが、手で書いている方は文章が上手ですね。

私は原稿用紙に書くのは好きなのに、なぜかメモやノートをとるのは昔から嫌でした。今でも自分の創作帳って持っていないんです。破った原稿用紙の裏に何かメモを取っておくことはあるけれども、どんな長い小説を書く場合にも創作ノートは持たない。

メモを取っておくのは非常に大事なことですが、あまりガッチリとメモで作ってしまうと、いざ書いていく時にそこから抜け出せない怖さがあります。

私も初めの頃は原稿を書く時に、びっしりとあらすじを書いた時があったんです。ところが、それをなぞる小説しか書けないことに気づいたんですね。

想像とオリジナリティ

脚本でも小説でも、書いている間にいろんな想像力が膨らみますよね?この想像力が大切なんです。それを掴まえられるように。

想像すなわち創造。ものを思う想像力がないと、ものを作り上げていくことはできません。ものを思う想像の実践が、ものを作る創造となる。いつでも妄想をしていてください。妄想癖をつけることも大切なんです。

私は周りの人をじーっと見ていて、その人のことを想像していると、面白かったりおかしかったり、いやらしい気分になったりして、ひとりで笑ったりしゃべったりするらしい。だから気持ち悪いと思われているでしょうね(笑)。

退屈はしない。街で人が行き来するのを見たり、人の後ろ姿を見ていても、そこからいろんなものを想像する。そうすると、そこから無限のストーリーが生まれてくる。

この「想像する」という習慣を忘れないようにしてください。想像力が乏しいと、書いたものが画一的になります。

1億人の人間がいれば、1億の個性がある。それは決して類型化されるものではない。ところが脚本に定まった時に、キャラクターは類型化されます。お巡りさんは必ずこう言うとか、刑事さんはこう言うとか。そんなはずはない、みんな別々の人間ですから。

その類型化があると、話は面白くなりません。リアルなものを書いているようで、実は非現実を書いているのと同じ。芸術表現において最も必要なものは、オリジナリティです。誰も書いたことのないものを書く。誰もやったことのないことをやる。これが芸術家の魂です。

いちばん最初は違うでしょう、初めはみんな真似から始まります。自分の尊敬する作家の真似をする。私はよく筆写をしました。様々な長編小説を原稿用紙に書き写しました。それは勉強としてやったのではなくて、書いていて面白いから。

その次は真似です。その人と似たような文章を書く、これでいいんです。

ただプロになるぞと思ったところから、自分のオリジナリティがなければ絶対にダメです。「この人は○○に似てる」って言われたら絶対にダメ。「○○の影響を受けている」っていうのは、恥ずかしいことです。

オリジナリティ、個性を大切にする。その個性は、皆様方がたどってきた人生の中にあるはずですし、皆様が読んできた読書遍歴の中に、その個性を表現する土壌はあるはずです。

誰もやったことのないことを。歴史に残る芸術家は、分野にかかわらずオリジナリティがある、誰にも似ていない。それが芸術家の条件です。

小説の映像化

私は、ずいぶんたくさんの作品を脚本にしていただきました。とてもありがたいのですが、時々「私の小説に似た脚本」が出てくるのが困るんです。あるんですよ、ソックリでパクリだろうと思うのが。

原作者とは何の関係もない人にクレームをつけるのも大人げないので言わずにいますが。これはね、作る人間が自覚をもって、そういうことを恥ずかしいと思わなければいけない。それを肝に銘じておいてください。あくまでも、自分の独創である、自分の創造物であるという誇りを忘れないようにしてほしい。

映画本編では14本撮っていただいたんじゃないかなぁ。テレビドラマ化は、多分その倍以上。舞台に至っては、ちょっと勘定できません。たくさん映像化、舞台化してもらって私は幸せだと思います。

いつでも自分で考えているのは、原作者は確かに著作権を行使して、原作料を頂戴するんですけれども、その作品の上で優位に立っているとは思いません。

小説家と、それを書いた小説を映画なりドラマなり違う形で表現する表現者の立場は、同じクリエイターとしてはあくまで同格である、というのが私の考えです。ですから、よっぽどのことがない限り、文句をつけることはありません。それはマナー違反だと思うのでね。

例外はテーマが変わっている場合。ストーリーが変わるのは仕方がない。だって映画の場合、2時間という尺の制限がありますよね。『鉄道員』の原作は50枚しかないんですが、『壬生義士伝』は1200枚ある。

これを同じ2時間でやるなら、ストーリーを大きく削ったり、水増ししたりする作業が必要となります。だからストーリーが変わるのは仕方ない。

ただテーマが変わっちゃったらまずい。原作者が「これを訴えたい」と思っていたことが、脚本の段階で違うものにすり替わると、これは違うぞということになる。それで話し合いに入ることはありますが、それ以上のことはいたしません。

小説家と脚本家の決定的な違い

私は小説を書く時に、頭の中で映像は思い浮かべません。

脚本家の方がどういう気持ちで脚本を書くのかはわかりません。ただ、「脚本の勉強をしながら小説を書きたい」と言っている人がずいぶんいらっしゃったので、私が言っておきたいのは、頭の中に映像を思い浮かべてデッサンしたら、いい小説にはなりません、ということです。

小説家というのは、画面を見ているのではなく、その世界の中に入っていなければならない。そこにいる登場人物たちと時間も空間も共有していなければならない。全然違うんです。

頭の中には画面を思い浮かべない。もっとリアルに、彼らと空間を共有しているという立場で書いていかなければ、小説にはなりません。これはおそらく小説家と脚本家の心構え、書き方の決定的な違いだと思います。

たしかに、シナリオスクールで勉強した小説家の人ってかなり多い。小説そのものをきちんと勉強できる場所が少ないせいかもしれません。とてもいい勉強の仕方だとは思うんですけれど、その辺をごちゃまぜにしないように気を付けていただきたい。

そうすれば小説が小説らしい形に出来上がります。シナリオのような小説というのは魅力がない。脚本家や映画監督が読んだとしても、脚本と同じじゃないかと思ってしまう。原作としては、そう思わせないような小説が必要。だから映像は思い浮かべない方がいい。

私は昭和26年の生まれで、テレビの開局とほぼ同時に生まれて、物心がついたころには映画の黄金時代。映画館は週替わりで、今は駅前に映画館でしょうが、昔はバス停に映画館でしたから。ものすごい数あった。

しかもテレビが普及していないから大入り満員。通路や2階までギッシリ。下手すりゃ舞台の袖に寝っ転がってみているヤツもいる。そんな映画館の様子を記憶しています。

そういう意味では、私は映像文化で育った初めての世代かもしれません。だからこそ自分は映像や舞台に関して非常に興味があるし、テレビも映画も大好き。

その一方、この映像文化の中での伝統的な日本文学を書いていく自分を、常に意識しています。なぜならば、映画には100年の伝統がありますが、文学には2000年の伝統がある。これを映像の洗礼を受けた私の世代で変質させていいものだろうかと、常に自問しています。

どちらが優位という意味ではありません。文学が変質すれば、おのずと映像文化も変質してしまうと考えるからです。健全な、総合的な日本文化をどのようにしたら一番上手く構築していけるかということを、いつも考えています。

覚悟して、楽しんでください。「つらい、苦しい」と思って、いい仕事ができたためしはありません。自分でも面白おかしく楽しんで、初めていい仕事ができるものです。

〈採録★ダイジェスト〉THEミソ帳倶楽部「新井一生誕百年記念講演・浅田次郎さん編 創作者と創作」
ゲスト:浅田次郎さん(小説家)
2015年12月23日採録
次回は4月29日に更新予定です

プロフィール:浅田次郎(あさだ・じろう)

1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で吉川英治文学新人賞、1997年『鉄道員(ぽっぽや)』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、2007年『お腹召しませ』で司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で大佛次郎賞をそれぞれ受賞。その他『蒼穹の昴』『椿山課長の七日間』『薔薇盗人』『憑神』『夕映え天使』『赤猫異聞』など多数。

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