石塚:ライブシーンは、現場ではカット割りしてないじゃないですか。感覚だったわけですよね。
入江:僕、基本的にはカット割りをするタイプなので、この歌詞の時はこの人を撮るって頭の中で計算はしているんです。
歌詞が今回のお話の伏線をすべて回収していくっていう構造で、お菓子のひよこや干物、それまでに拓郎が歌った曲のタイトル、咲との思い出、そういったものがすべて入っている。
それを歌っている時、聴いている時で2倍の時間がかかりますよね。それで曲を3番まで増やしてもらったので、歌詞もその分作らなきゃいけないということになった。
石塚:僕が吹原さんに「東映スタジオに来てくれ」ってお願いして。監督がスタジオで撮影している横で、こっちは吹原さんをカンヅメにして、1日くらいで書いてもらった。
入江:僕が撮っている最中に、吹原さんがどんどんアイデアを出していくっていう。
吹原:あんなギリギリなことがあるんだって思って(笑)。昔の脚本家はずっと現場に張り付いてやっていたらしいですけどね。
入江:特に最後の歌っていうのは、告白というか、ラブレターのようなものじゃないですか。ていねいに考えなきゃいけないですよね。
石塚:イントロが流れて最初の歌詞が「どうせ僕はギターを手にして歌います」っていうフレーズ。
入江:そう、文法的にはおかしいんですよ。その方が引っ掛かるんじゃないかと。「全然大丈夫です」って言い方あるじゃないですか。
これも文法的におかしいですよね。最初にそれを使ったのは芥川龍之介らしいんです。それが今になっても使われている。
それと同じで「どうせ僕は」。吹原さんから出てきたアイデアだと思いますけど、あ、いいなと思って。
石塚:お2人は日常的にそういう日本語の気になる表現を、チェックしてメモったりしています?
入江:僕は一応、阿久悠の歌詞作りの本とか読みましたよ(笑)。勉強しとこうと思って。時代の感覚をどうつかむかってこと。一周目で出てきた言葉はあんまり使わないとか。ちゃんと引っくり返す。これ大丈夫か?って言葉の方が残る。
石塚:映画の中での「もっと翼広げていこうぜ」っていう名セリフ、あれは真逆なところを狙っているんですね。
入江:J-POPの記号化した歌詞ってあるじゃないですか。お笑い芸人でミュージシャンのマキタスポーツさんが、以前ライブで、クラシック曲の「カノン」に乗せて記号化した歌詞だけで歌を作るっていうことをやったら、それがすっごく感動的でヒットしそうで。
「翼広げて」とか「瞳閉じて」とか。脚本作りも同じで、テンプレートでできちゃう部分ってある。その戒めとして書いたんです。だからこれは「翼広げていこうぜ」って曲を書いてる人に対して、ケンカ売ってるわけ(笑)。
石塚:記憶に残る名シーンになりましたよね(笑)。
入江:僕は映画を作る時に批評性がないとイヤで。この時代の何かが刻まれていないと。
石塚:時代性や流行と普遍性のバランスを、映画を作る時には考えますよね。監督は今回はJ-POPという流行のものを取り上げた。
入江:拓郎が宇田川咲に惹かれていくところや、なぜ歌うのかということは普遍的。この普遍性が無ければ、お客さんの感情を動かせない。それ以外のことはどんどん好きにやっちゃっていいと思っています。
例えば脚本家の福田雄一さんは、バラエティじゃないかってくらい旬なものをぶち込んできます。それはそれで、ひとつの脚本作りだと思うんですよ。ちゃんと普遍性のあるものに落とし込んでいる。それが作家性だという気がする。
旬なものを入れていくのも作家性、逆に排除するのも作家性。それが、なぜその人に仕事を依頼するのかという理由になってくると思う。
石塚:そういう意味では、「入江悠」たるスタンスは?
入江:僕は、流行っているものとか言葉は入れたくない。だから今回、〝ひよこ〟とか干物を出しているわけですけど。
吹原:楽屋に差し入れを持ってくるシーンで、僕が最初にひよこって書いたんですよ。僕自身がひよこ好きだったんで(笑)。
入江:それがすごくよくて。その後もひよこを出すことにしました。
吹原:そこでしか出てこない一言ネタのはずだったのに、ラストシーンにもひよこが出てきて、「あっ、入江さん回収してくれた!」と。
入江:フリは回収したかったんです。ひよこという、忘れかけていたようなお菓子をあえて出すことがよかった。
吹原:ちょっとした思い付きが、重要な小道具になった。
石塚:これがなければ、最後のカタルシスにはたどりつけなかったと思う。
入江:あと、僕は最近、食べ物を出すのが好きなんですね。血を通わせられる気がして。