落語家になりたかった!
立川らく朝でございます。
いやぁ、出囃子がないと出づらいものですね。これだけ地味に出てきたのは初めてです。
北海道から沖縄まで、色々なところから呼ばれて「健康落語」というオリジナルの落語をやっております。ずっと東京にいるとイライラするタイプですから、遠くから呼んでいただくと嬉しいものです。非日常、という感じでね。ですから、こういう風に呼んでいただく場合、遠ければ遠いほど嬉しいんです。
一番つまんないのは、東京都内ね。中でも一番つまんないのは、表参道。だって、私のクリニック、表参道にあるんですよ(笑)。シナリオ・センターが表参道にあるって聞いた時は、来るのやめようかなって思いましたね(笑)。
今日は、自分の話をしろってことでね。自分の話をしたい落語家なんていないから、災難ですね。はっきり申し上げておきますけど、役には立たないですよ。役に立たない話を90分聴かなきゃならない皆さんの顔を見ていると、お気の毒でしょうがない。
この前も、医師会の講演に呼ばれました。普段は、医学情報を笑いと共に提供する「ヘルシートーク」という漫談をやっていますが、医者に向けて健康情報やったってしょうがないし、ヘンなことを言うと「キミ、あそこ間違ってたよ」なんて言われかねない。「じゃあ、医者と落語家の二足のわらじを履くことになった経緯を」と言われ、話をしました。
すると最後に司会の方が「らく朝さん、ありがとうございました。皆さん、今日のお話をぜひ参考になさってください」。思わず「やめてください」と言いましたね、医者がみんな落語家になったら、たまったもんじゃありませんからね。よく言うじゃないですか、「良い子の皆さんは決して真似をしないでください」。今日の話はまさにこれですから。皆さん、覚悟して聴いてくださいね。
私は今、立川流にいるんですが、これは立川談志が落語協会を脱退して自分で立ち上げた協会です。落語界には、「落語協会」「落語芸術協会」「円楽党」「立川流」の四つがある。
そして立川流には3種類の弟子があって、Aコースは本来の弟子。Bコースが社会人の弟子、実際にはビートたけしさんやミッキー・カーチスさんのような有名人です。Cコースはいわゆる素人向けのファンクラブです。私の師匠は、談志の弟子の立川志らく。つまり私は談志の孫弟子ということになります。
私の母校は杏林大学の医学部です。本当は演劇部に入りたかったんだけれどもなくて、作るにしても人数の少ない医学部ではとても無理だと思い、考えた末に落語研究会を立ち上げたんです。落語はお金がかからなくていいですよ。机の上に座布団乗っけたら、すぐに独りでできますから。それで6年間落語をやったら、完璧にハマりました。
6年生になると医師国家試験があって、その試験の後、合否発表まで10日間ほど何もしなくていい期間があります。その10日間、ずーっと真剣に悩んでいました。このまま医者になるか、それとも落語家になるか……。
でも結論が出ない。出ないまま、慶應義塾大学病院内科での研修が始まっちゃったんです。当時の研修医なんて、24時間勤務みたいなものです。で、気付いたら研修が終わってた。次に地方の病院に回されて、その次は論文……次から次へと現実が降るようにやってきて、悩んでいたんだけど結論が出ないうちに、気がついたら40過ぎていたという……寂しいですよねえ。
別に私は落語家になるのを諦めたわけじゃない、決心がつかないまま医者をやっていただけですから。普段は理性に蓋をしているんです。
でも、落研のOB会で酒を飲んで理性が飛ぶと、つい愚痴る。「俺は本当は落語家になりたかったんだよぉ」と。飲み会のたびに絡まれるから、たまらないと思っていたんでしょう、後輩の1人がある時1冊の本を持ってきてくれました。立川談志の本で、題名が『あなたも落語家になれる』(笑)。
そこには何と、社会人を弟子に採ると書いてあるじゃありませんか。すぐ談志の事務所に電話して、すごい勢いで尋ねました。「社会人を弟子に採るというのは、本当でしょうかぁ!?」。
すると出た人が「それねぇ、15年前の本なんですよ」。私が電話口でガッカリしたのがわかったのか、「談志の弟子の志らくが『らく塾』という素人向けの勉強会をやっているから行ってみては」と教えてくれました。
そうして出会ったのが、師匠の志らくです。当時参加者は15~16人いましたかね。最初の半分は講義を受け、残り半分で実技ということで、全員に少しずつやらせるんです。そこで10年ぶりくらいに小噺をやって、それでもう火に油注いじゃったというかね、たき火に手榴弾を放り込んだような状態。やりたくてやりたくてどうにもなんなくなっちゃった。