柚木麻子さんの勇気
シナリオ・センター会長の小林です。色々なことが起きすぎる昨今ですが、このニュースは、驚嘆し、さすがだと思いました。なにかと言うと、出身作家柚木麻子さんが本日、代表作『BUTTER』の版権を新潮社から河出書房新社へ移動することを発表したのです。
版権を移動するということは、出版社としては大変なことですし、著者自身も多大の精神力と労力が必要だったことと思います。
何故、柚木さんが、このような大変なことを自らされたかというと、ご自身のことではないのです。
でも、「作家として、自分にできる具体的なアクション」として、複数ある著作のうち一作の版権を移す決断に至ったと説明していらっしゃいます。
その背景は、2025年、作家仲間の深沢潮さんの対する『週刊新潮』に掲載されたコラムの問題なのです。
「週刊新潮」は、作家の高山正之さんが朝鮮半島にルーツのある深沢さんら3人の作家に「日本名を使うな」などと攻撃するコラムを掲載したのです。
深沢さん等はすぐに抗議をしたのですが、新潮社の対応は連載を中止にするだけで、全く問題と向き合っていず対応に誠意がなかったといいます。
柚木さんは「(深沢さんの)負担、孤立を見聞きし、出版というシステムの在り方を深く考え直す契機の一つ」になったと説明。さらに「差別や排除に対しどう立ち向かうべきか」や「自分にできる具体的なアクションは何か」を検討し、版権を移すことを決めたそうです。
両社の合意のもとでの円満な移動であるとしながら、 同時に、作家仲間である深沢潮さんへの新潮社の対応に疑義を呈しています。
声明で柚木麻子さんは、「出版の世界が、読者や作り手が安心して表現に向き合い、多様な文化や価値観を受け止められる場所であることを願っている。他の書き手に強制する意図はない」とおっしゃっています。
こうした行動、声のあげ方は一筋縄ではできないものですが、柚木麻子さんらしい行動だと拍手喝采です。
彼女が投じた一石が大きな波紋を呼びんでいくものと思います。
不適切な言説を垂れ流し続ける一部のメディアと、それを黙認してきた業界は、しっかりと受け止めて、今後の在り方を考えるべきだと私は思います。
野田秀樹さんの見識
4月は、あちらこちらの大学で入学式が行われ、色々なゲスト、先輩がスピーチをされています。
東大は卒業生の劇作家の野田秀樹さんが、後輩たちへメッセージを送っていました。
その中で、AIに対するお話があり、東大の新入生だけでなく、創作する皆さんにも、是非知ってもらいたいと思うので一部を勝手に抜粋させていただきます。
『(前略)もう一つAIと心の問題に、私が携わっている仕事「創作」というものがあります。「AIが今後、人間のクリエイションに取って代わる」などと戯言を言う人もいますが、それは「人間」が創作をする「喜び」を無視しています。
どれだけレオナルド・ダ・ビンチの絵に似たものをAIで書くことができたとしても、ダ・ビンチの喜びは再現されません。
芸術は、表現された結果であると同時にプロセスです。その過程に喜びと苦しみがある。
学問もそうだと思います。「問いに答えていくプロセス」。そこに苦しみ、その問いが解けた時、或いは解けた気がする時、例えようもない喜びを感じる。じつはそれは、あなたにその心を感じる「有限の身体」があるからです。
愛情にしてもそうです。AIには体がないから体験がない、だから「初恋の切なさ」を知識としては理解できても、その「切ない心」はわからない。身体がないからです。
「創作」には喜びがある。喜ぶ身体があります。「初恋」には切なさがある。切ない身体があります。
こうした人間の古いテーマである「身体と心」「人間の心」というものが、このAIの登場によって、再び新しいものとして浮上してきている、と私は思います。
人間には肉体があるから、有限の時間があり、けれどもだからこそ、今あなたたちは、「若い」と呼ばれる。肉体があるから「若い」と呼ばれる。
現に、新しいAIというものは存在するけれども、若いAIは存在しない。AIには肉体がないから、「老いる」ことはない。古くはなるけれど、年老いることはない。AIが新しくなることはあっても、若くなることはない。「新しい」と「若い」は違うのです。
あなたたちは「若い」のです。「若い肉体」を持つ生き物なんです。そして「若い身体、肉体」からしか生まれない「心」というものがあります。
そこで再びAIとの、あなた方六万年分の記憶バトルの話に戻りましょう。
なぜあなた方が、AIとバトルさせられなくてはならないのか。
肉体を持たないがゆえに、AI は、時に間違った決断をするはずだからです。
身体に根差した「心」を持っていないAIが生みだす答えは、極めて効率的なものになることがあります。
例えば「戦争」に直面した時はどうでしょう。
身体があるからこそ感じる「死」に対する恐怖や、親しい者への「愛情」など度外視したところで、AIは、ゲームに勝つ理論で、最も勝利するために効率的な効果的な作戦を考えるでしょう。
ゲームでミサイルを飛ばすように、ミサイルを飛ばすことを指示するでしょう。極論をいえば、行き着くところは、核爆弾を落とすことさえも示唆するはずです。
こうした話を、恐ろしいものに感じられるのが、身体を通して感じる「人間の心」です。
その「新しいAI」が情報という名の記憶から犯すであろう誤りに立ち向かえるのは、きっとあなた方の、一見役に立たない道端の記憶なのです。あなた方の記憶には、「心」が伴っています。時にそれは、思い出とさえ呼ばれます。
でも、人の心というものが伴っているあなた方の記憶こそが、AIの、より正確で迅速で大量に発信しようとする記憶とは違ったところで大いなる力を発揮するのです。
記憶バトルなどと言って、あなた方の心に住んでいる20年間を、AIとバトルさせること自体がそもそも間違いです。
人の心は、AIの外にあります。どれだけAIが心のあるふりをしても、AIがこちらを愛しているふりをしても、それをAIは知識としてしか知らない。
だからこそあなた方東大生も、知識としてしか知らない脳みそになってはいけない。心を伴った脳味噌であって欲しい。
そもそもAIが人間を超えるとか超えないというのは、まったく次元の違う話で、土俵が違うのです。
人間には「体」がある。「体」があるからこそ感じる「心」や「感情」がある。AIには身体がないから身体に根差す心もないのです。
これまでの歴史上、科学万能のような時代が幾たびかありました。今日またそんな時代に突入しようとしている、そう見えます。科学は時に万能のような顔をします。
けれどもそのたびに人は、その万能であることの誤りを指摘し、実は世界は不確実なものであることを示してきました。
東大生を前にこれは釈迦に説法かもしれませんが19世紀の初頭、ラプラースという物理学者が「すべての原子の位置と運動量を把握できれば、未来は完全に予言できる」はずだという、思考実験を提唱しました。
けれども20世紀には、粒子の運動量と位置を、同時に捉えることはできないという、かの有名なイゼンベルクの「不確定性原理」により、そのラプラースの悪魔と呼ばれた科学は雲散霧消しました。
その不確定、不確実なものこそが、私たちの「身体」です。私たちの「身体」に根差すわたしたちの「心」です。
あなたがたは、若い身体を持っている。とりわけ頭が良いあなた方は、脳みそ寄りの人間です。身体を忘れがちです。
けれどもあなた方がこれからAIと生きていく時代だからこそ、AIには身体がない、それに根差す心がないことを憶えていて欲しいです。
AIがあなた方の「若い身体」を「その身体に根ざす若い心」を超えることは決してない。人間の未来を決定するのはAIではない、人の心だと私は信じています。素敵な未来を作ってください。入学おめでとう。』
創作する私たちに、AIとの向き合い方を教えてくれています。












