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映画監督の脚本作法/朝原雄三監督が語る師匠・山田洋次監督

2013.12.12 開催 THEミソ帳倶楽部「映画『武士の献立』を撮って」
ゲスト 朝原雄三さん(映画監督) 聞き手:柏田道夫さん(脚本家・小説家・シナリオ・センター講師)

シナリオ・センターでは、ライター志望の皆さんの“引き出し=ミソ帳”を増やすために、様々なジャンルの達人から“その達人たる根っこ=基本”をお聞きする公開講座「ミソ帳倶楽部 達人の根っこ」を実施しています。そのダイジェスト版を『月刊シナリオ教室』(今回は2014年4月号)よりご紹介。
今回のゲストは、松竹の映画監督で、映画『武士の献立』を撮った朝原雄三監督。聞き手は、朝原監督・山室由紀子氏とともに『武士の献立』の脚本を担当した柏田道夫さんが務めました。山田洋次監督との長い師弟関係についても本音トークで触れ、飾らない気さくな監督の話し振りに、親近感の沸いた90分となりました。

初めて取り組んだ時代劇

〇柏田:『武士の献立』の企画が立ち上がったのは大体2年ほど前。松竹のプロデューサーと私で、あぁでもないこうでもないとプロットを練っていました。

その後、朝原監督が撮ってくださることに決まり、さらに今回は主人公が女性なので、女性の感覚を入れたいということで、山室由紀子さんという脚本家さんにも参加していただくことになりました。

朝原さん自身も脚本をお書きになるので、私が書いたものを、朝原さんと山室さんに預け、戻ってきたものをまた直し……というような形で脚本作りを進めていきましたね。

決定稿になったのが12年の秋頃。撮影が13年の2月~3月ですから、結構ギリギリです。主に京都の松竹撮影所で撮って、能登を中心にロケ撮影を行った、という流れです。

初稿を読んで、どこを面白いと思ったのか、お聞かせいただけますか?

〇朝原:正直、初めは乗り気がしなかったんです(笑)。大船にあった松竹の撮影所で僕は育ったんですが、そこは現代劇を担当しているところで……僕はずっと山田洋次監督の助監督として働いていて、1本だけ『たそがれ清兵衛』をやりましたが、時代劇経験がなかった。

だからプロデューサーから話をもらった時に「なんで俺なの?」と(笑)。他に時代劇を得意とする監督がいらっしゃるだろうと思ったんですね。撮りたくないというよりは、無理だな、というのが最初の感想です。

プロデューサーの顔色を見てみると、たぶん他の人たちに断られてきたんだろうなと(笑)。なにせ、柏田さんの『武士の家計簿』は、この時代劇不振の時に、大当たりをしていますからね。

「柳の下の第二弾」を狙っているというのはもちろんわかりますが、どう考えても、前作と見比べて、いろいろ言われてしまうのが関の山ではないか……。

それがちょうど『釣りバカ日誌ファイナル』を撮り終えて、ずっとブラブラしていた時で、僕は松竹の正社員なのでいつまでも遊んでるのはマズい。他に引き受ける監督がいない時にこそ社員の出番だろうと。でもやるからにはキチッとやらないといけない。それでどこかに自分の楽しみを見つけようと思いました。

『武士の家計簿』は、公開時に家族で観に行ったんですが、松坂慶子さんの登場シーンで観客がゲラゲラ笑っていて、嫉妬に狂った覚えがあります(笑)。そうしたライトコメディーの要素を入れるのは面白いと思いました。

それと、夫婦の夫の方に以前好きだった女性がいたが結ばれなかった……という話を盛り込んだのは、僕のアイデアです。

たまたま夏目漱石の『明暗』と、水村美苗の『続明暗』を立て続けに読んで、映画化したいと思ったのですが、そう易々と撮らせてくれるわけはないので、今回の脚本にそういう夫婦関係を入れ込んでもらいました。

女性向けの作品ですから、恋愛映画としての要素を出したというわけです。こうして、やっと「自分にも撮れるな」という気持ちが湧いてきました。

〇柏田:ストーリーは、高良健吾くん演じる舟木安信が、家業を継ぐはずだった兄が死んでしまい、渋々お殿様に料理を作る包丁侍になるという話です。安信は、優秀な料理人だったお兄さんにコンプレックスを持ち、料理に熱心になれなくて……というキャラクターを、最初は強く出していた。

そこに朝原さんが恋愛要素を加えた。上戸彩さん演じる年上バツイチ女房の春が嫁いできて、夫には好きな女性がいた……という設定になったことで、より一層、春の葛藤が深くなりました。

〇朝原:柏田さんの初稿は、剣で生きていきたかった男の葛藤、男のドラマという色が濃かったんです。職業選択の自由がない男性と、婚姻の自由がない女性の葛藤には、重なる部分があるのではないかと考えたんですね。

〇柏田:映画の企画が立ち上がる時には、先に監督が決まっているというケースが多いんですが、今回はなかなか決まらなかった。

『武士の家計簿』の故・森田芳光監督は独自のカラーが強い方でしたが、朝原監督は非常にきっちりと作品を作られる方で、朝原さんに決まったと聞いた時は、ホッとしました。『釣りバカ』などは非常に安定して観られるし、松竹らしいカラーを持っている監督さんだなと。

時代劇ならではのリズムと立ち振る舞い

〇柏田:キャストに上戸彩さんの名前が挙がった時、それまで全然イメージになかったけれども「あ、なるほど!」と思いましたね。監督はキャストの希望は出されたんですか?

〇朝原:僕は基本的にはキャスティングはプロデューサーにお任せです。高良くんとは以前から組んでみたいと思っていたので、彼の名前は出しましたけど。上戸さんは、今回の作品に非常に合っていたんじゃないでしょうか。

 

〇柏田:脚本を書いている最中は、「このキャラクターで大丈夫かな?」と思ったりするんですが、例えば安信の父母を余貴美子さんや西田敏行さんが演じてくれると、ちゃんとその人物が存在しているように見える。もちろん監督の演出の力もありますが。

〇朝原:今振り返ると、西田敏行以外の誰が演るんだ?って感じですよね。上戸彩と高良健吾は時代劇っぽくないキャスティングですが、余さんと西田さんで盤石な雰囲気を出してもらえたと思います。個人的にも、今回の京都の撮影は単身赴任のような形で、『釣りバカ』でご一緒していた西田さんに参加してもらえたのは、気持ちの上でも大きかったですね。

〇柏田:初めて時代劇を撮られて、現代劇とは随分違いましたか?

〇朝原:できるだけ現代劇風に撮ろうと意識しました。「臆するまい」と思う反面、自分が想像していた芝居のリズムと違ってきてしまうのには戸惑いました。例えば、武士だと、パクッと食べて「うめー」では済まない。

箸を手に取って、食べて、箸を置いてから「うん、うまい」なんです。刀の扱い方や着物での立ち居振る舞いもそう。サッと部屋を出ていきたいのに、襖を開けて、出てから座って襖を閉めて……と、一事が万事そういう感じなので、自分は素人だなと痛感させられました。

例えば夫婦が道端で柚餅子を分け合って食べるラストシーン。所作指導の女性が泣いて頼むわけです、「私は多くの作品に携わってきましたが、武家の妻が歩きながらモノを食べるわけにはいきません。そんなことをされたんじゃ、私の存在価値はないも同然です」と(笑)。

そう言いたい彼女の立場もわかります。でも、僕もこの映画ではそれをやりたいという気持ちがあったわけです。

京都の撮影所で働くスタッフの方々は、時代劇が減っている中で、時代劇映画をやる貴重な機会には、キチンとやりたいという気持ちが強いんです。その熱意はありがたく受け止め、お互いの立場や気持ちは理解しあっていたつもりでした。

僕は「本当にありがとうございます」と春に言わせたい。ところが助監督は「誠にありがとうございます」だと。このセリフの違い、皆さんならわかってくれると思います。これは、作品を作っていく面白さでもあり、大変さでもありました。

〇柏田:時代劇はそういった細かいことが問題だったりするんですよね。私も、監督から戻ってきた脚本に対して文句を言ったことがありました。「これはありえない」とレポートにズラズラと書き連ねて。

〇朝原:そんなこともありましたねぇ(笑)。

〇柏田:それで直してもらって、「この辺で妥協するか」と(笑)。でも、現場に行くとまた専門の監修の方がついているという、ね。今回は加賀料理が題材ですから、専門家の意見も取り入れて、とってもお腹がすく映画になりましたよね。和食がユネスコ無形文化遺産に認定されたのも、良いタイミングでした。

〇朝原:スペインのサンセバスチャン映画祭の、食に関する映画部門に招待され、ワールドプレミアというか、初披露をしました。スペイン語の字幕を付けて3回上映しましたが、全部満席でした。

題名はなんと、『サムライ・クッキング』(笑)。この作品には忍者は出てこないし、チャンバラもほとんどありませんから、「侍」って書いたTシャツを着たようなマニアたちを失望させたようです。ただ、「とても良かった」と言ってくれる人もいて、伝わる人には伝わったのではないかと感じました。

※You Tube
松竹チャンネル/SHOCHIKUch
『武士の献立』 特別映像

助監督1本目で山田組をクビ!?

〇柏田:朝原さんは、大学を卒業して助監督として松竹に入られたんでしたね?

〇朝原:そうなんです。映画産業は斜陽ですから、なかなか採用してくれないんですが、僕が卒業した年はたまたま大船撮影所50周年で『キネマの天地』を撮ることになったので、その記念に助監督を採ってみようかという、めちゃくちゃな話でした。

僕は本当は田舎に帰って親の仕事を継ぐはずだったのに、試験受けたら受かっちゃった。試験に通ったなら俺って才能あるのかも、って勘違いしちゃったんですよ。まだ22歳でしたから。

〇柏田:ということは、現場からスタートされたんですね。最初から山田監督のところに?

〇朝原:4月に入社して1週間くらい、本社で電話応対などの研修を受けて、終わって撮影所に行ったところ、「今、何も作品撮ってないからしばらく自宅待機してくれ」と言われましてね。

次に呼び出しがあったのが、なんと2カ月半後。同時期に3本作品を撮るというんです。寅さんの『男はつらいよ』、森崎東監督の『塀の中のプレイ・ボール』、故・本田美奈子さん主演の『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』という作品でした。同期入社の助監督が3人いたので、1本ずつ就くことになり、ジャンケンで一番負けた僕が『男はつらいよ 知床慕情』をやることになったんです。

僕は一応大学では映画クラブで8ミリを回していたんですけど、商業映画とはまったく違う。本当に何もわからない状態で現場に入りました。山田組は沢山スタッフがいて、松竹の普通の映画では助監督は4人ですが、「朝原くんは5人目」と言われて、ずっと立って見ているだけでした。単なる見学者ですよね。

終了後、山田さんが「キミ、どうだった?」というので僕は「勉強になりました」と答えた。すると「そうか、勉強にはなっただろうけど、何の役にも立たなかったね」と。

途中から僕は「朝原くん」ではなく「ハラハラくん」と呼ばれていましたからね。「あいつがいると何かしでかすんじゃないかとハラハラする」と(笑)。そういうことで、1本目で山田組をクビになり、別の組に行ったんです。

山田洋次監督の脚本作法

〇朝原:その約1年後、山田監督が旧制松山高校を舞台にした早坂暁さん原作の『ダウンタウン・ヒーローズ』を撮ることになり、朝間義隆さんと一緒に脚本を書いていたんです。松山弁のセリフを書くために方言指導をしてくれる人を探していて、香川出身の僕に声がかかった。

言っておきますが、香川と愛媛じゃ全然方言違いますから(笑)。それでもいいというので、手伝うことになった。神楽坂の旅館に山田さんが籠っていたところへ、僕が方言のアドバイスをし、結局泊まり込みで1か月半ほど付き添ったかな。それが、山田さんとのちゃんとしたお付き合いの始まりでした。

〇柏田:脚本の勉強はされていたんですか?

〇朝原:勉強はしていないんです。松竹に入社して自宅待機をしていた間、「シナリオを1本書け」という課題が出ていました。それが、僕にとっての1作目ということになります。

〇柏田:じゃあ山田さんの脚本作りを横で見ていられたのは、勉強になったでしょうね。

〇朝原:セリフを方言に直す段階ですから、シナリオはだいぶ進んでいたんですね。ペラで200枚くらい出来上がっていた。クランクインが迫っていたある朝のこと。山田さんが「朝間くん、どうもこれは良くないと思うんだ」と言いだした。

普通、「昨日書いた分が良くないという意味かな」と思うじゃないですか。皆黙り込んで数十分。「直すか」という話になりました。どこか途中から書き変えるのではなく、ストーリーをイチからやり直し。

たしかクランクインまで1か月くらいしかなかった。戦後すぐの旧制高校の話ですから、美術品やセットなどの準備に時間がかかるんです。でもプロデューサーも何も言えず、「わかりました」って帰って行きましたね。

で、どんな話にするかってところから、始めるんですよ。原作はあってないようなもので、ほとんどオリジナルです。こりゃ大変なことになったなと思いましたね。その晩、朝間さんは心労からか吐いてましたよ(笑)。

そのあと朝間さんが別の作品を撮ることになって、『ダウンタウン~』から外れるということになった。で、山田さんと僕の2人が残された。このオジサンとこれから1カ月も顔を突き合わせるのかと思うと憂鬱でね。

だって山田さん、ずっと黙ってるんですよ。寝てると思いきや起きてる。こっちは一度は要らないと言われた助監督だし、辛かったですよ。

でも山田さんのすごいところは、若干23歳の僕に対して「キミだったらどうする?」とか「これどう思う?」と聞いて、情報を引き出そうとしたことです。旧制高校の学生である若者の青春群像劇でしたから、若い僕なら何かあると思ったんでしょう。そんな形で、完成までの1カ月半ほど協力しました。

シナリオを書くしんどさを身をもって学べたし、山田洋次という大御所がこんなに苦しんで書いているということを知ることができました。のちに、山田さんが喋ったことを僕が口述筆記するようになりましたけど、当時はまだ山田さんが自筆でシナリオを書いていましたから、山田さんが書きなぐったものを僕が清書する。いろんな意味でショックでしたし、得難い経験になりましたね。

〇柏田:山田監督は朝間さんとはどういう感じで共同執筆していったんですか? 

〇朝原:色んなやり方をしていたようですが、僕が入った頃はハコ作りが基本だと。山田さんは必ずシノプシスを作ります。その後整理カードにシーンと内容を書いて、1本の映画だと100~150枚くらいを旅館の畳に並べて、入れ替えたりして考えていましたね。師匠の橋本忍さんから受け継いだ方法だそうです。このやり方は随分長くやってました。

基本的には山田さんが内容を決めてセリフも書いていくんですが、意外と本を読まなかったりする。

一方の朝間さんは英文学部卒で非常に教養深い方でしたから、「D・H・ロレンスの小説にこんな話がある」「ん、いいじゃない」という風になる。

山田さんは「オリジナルといっても所詮は何かの話の変形でしかない」という考えの持ち主で、朝間さんが「この間こういう小説を読んだ」というと、「寅だったらこういう風になるのかね」と発想して話を作っていました。

ハコから先は山田さんの独壇場で、朝間さんは修正役、相談役という感じでした。山田さん曰く、“壁”。ボールを投げて、どんなものが跳ね返ってくるか。いい壁じゃなきゃダメだと言ってました。創作は必ずしも先導している方がエライという訳ではないんですね。

監督デビューは難病もの

〇柏田:その後、『時の輝き』という作品で監督デビューされました。これは山田洋次さんとの共同脚本ですね。

〇朝原:女子高生の難病ものです。助監督をまじめにやっていたら、ある日会社の重役に呼ばれました。「1本撮らせてやる」と。

女子高生の目がキラキラしているイラストが表紙の原作本を差し出して、「これなんだけど」。読んだら、顔から火が出るほど恥ずかしい小説でね(笑)。でも、「これを断ったらあと10年は助監督だよ」と。

実はこれ、重役が選んだ本ではなく、山田さんが「これを朝原に撮らせろ」って仕組んだ話だったんです。山田さんのお嬢さんがその本を読んでいたらしくて。

僕ももう29歳だったし「俺も男だ!」ということで撮ることに決めました。後輩の平松恵美子さんと一緒に、自宅アパートの隣の部屋に籠ってシナリオを書き、山田さんのところに持っていった。

山田さんは5枚くらいめくって一言、「これじゃ金取れないね」。意気消沈です。次の日から監督の自宅に毎日通い、山田さんが「シーン1、シュンチの家」「シーン2、看護学校」と読み上げると、僕がそれを書き写すという作業。忸怩たる思いでしたが、封切日が決まっている以上抵抗してもしょうがないので、言う通りに書いたわけです。

山田さんが原作からひとつだけ変えたところがありました。松竹といえばホームドラマですから、主人公がどういう家で育ち、どういうものを食べているのかが見えないといけない。原作にはない親との葛藤を付け加えたんです。

書き上がって原作者の折原みとさんのところに持っていったら、こう言われました。「とてもいいんだけど、少女小説のコツって親が出てこないことなのよ」。お父さんお母さんが登場しないから、ベストセラーになるのだと。その言葉は今でも忘れられません。

『釣りバカ』シリーズは苦労の連続

〇柏田:デビュー作で新人監督賞を獲り、その後はコメディー路線というか、『サラリーマン専科』シリーズを撮られていますね。

〇朝原:『寅さん』のいわゆるB面です。『サラリーマン専科』というタイトルなら、内容は何でも行けるだろうと(笑)。ですからオリジナルで、山田さんと一緒にホンを書きました。

〇柏田:その後、ずっと『釣りバカ』を撮ってらっしゃった。同じキャラクターで続けるというのは、毎回苦労されたのでは?

〇朝原:苦労しましたねぇ。だから『釣りバカ』のファイナル公開時に、山田さんがインタビューで「釣りバカのシナリオは1本目しか上手く行っていなかった」と答えていたのには、思わずひっくり返りました(笑)。

でも山田さんは真摯な方で、ゴーストライターなんか使わずに、全部自分で悩みながら書くんです。『釣りバカ』の後半戦はお歳も召していらしたし、他の作品も手掛けていました。『寅さん』終了後『たそがれ清兵衛』のヒットまでは、数年間のスランプがありました。

その頃僕が『釣りバカ』をやることになったので、だったら「朝原くん書けよ」ということになりました。山田さんのところにプロットを持っていって、OKをもらう形でした。でも山田さんは、自分では書かないけど拒否権だけは持っているという、悪いプロデューサーみたいだった……(笑)。 

でもある時、ほんとにケンカしちゃったんです。僕の出すアイデアが山田さんはどうしても気に入らない。朝間さんが間に入ってくれたんですが、どうしてもうまくいかなくて。2人だけだとケンカするから、後輩の助監督を2人入れて、代理戦争状態でした。とまぁ、そんな風にいろんな手を尽くして、『釣りバカ』後半戦をやりました。

 

自分がいかに面白いネタを持っているかが勝負

〇柏田:朝原さん自身、脚本を書く時に心掛けていることは何でしょう?

〇朝原:作品にもよりますが。独りよがりにならないように、ということかな。あまりヒット作には恵まれていないけれども、映画会社の社員として、「当たる作品」ということは常に意識しています。

僕は1960年生まれで、映画は、家族で観に行くのが当たり前の時代でした。そういう幅広い人たちが一緒に観られる映画を作りたいという気持ちがあります。間口が広くわかりやすい作品ですね。

例えばこのセリフは飛ばした方がいいなとか、時間軸をずらした方がオシャレだなとか、そういうトリッキーなことはやりたくない。体質的に、最後にパズルがピッタリとはまるようなシナリオには魅力を感じないんです。

それよりも、観た人の心に最後にザラッとしたものが残る作品を、いろんな人に向けて届けたい。

映画監督というのは、知識や才能よりも、その人間の体質みたいなものが、どうしても映画に出てしまう。僕が時代劇を撮ろうが、コメディーを撮ろうが、難病ものだろうが、僕の中ではあるひとつの生理に基づいている。どんな作品を撮るとしても、作家性はにじみ出るのではないでしょうか。

よく図書館に行って、映画の題材を探そうとしますが、10年以上通って、そこから映画になった企画はありません。書物の感覚でホンを書くということに頼り過ぎず、身近にある家族、友人の話といったところから感情を揺り動かせるようにすることが大事かなと。つまり、人に興味を持つ、ということです。

テクニックは練習次第で上がっていく。自分がいかに面白いネタを持っているかが、監督にとっても脚本家にとっても勝負です。知ることと感じることは根本から違いますから、脚本家を目指す皆さんには、自分の身近なことに興味をもってもらいたいと思います。

〈採録★ダイジェスト〉THEミソ帳倶楽部――達人の根っこ
「映画『武士の献立』を撮って」
ゲスト:朝原雄三(映画監督)
聞き手:柏田道夫

2013年12月12日採録

次回は8月13日に更新予定です

プロフィール:朝原雄三(あさはら・ゆうぞう)

京都大学文学部を卒業後、1987年に松竹に入社。山田洋次監督の下で助監督・監督助手として、『男はつらいよ』シリーズ、『学校』などの制作に携わる。1995年、『時の輝き』で映画監督デビュー。2003年の釣りバカ日誌第14作から2009年の第20作ファイナルまで監督を担当。『釣りバカ日誌15 ハマちゃんに明日はない!?』で2004年度芸術選奨新人賞を受賞。2018年秋に放送予定の、山田洋二監督とシナリオ・センター出身ライターの坂口理子さんが脚本を手掛ける『遙かなる山の呼び声』(NHK BSプレミアム)では演出を手掛けている。

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