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しゃれおつなお店や人々が行きかう街、表参道。そこで働くシナリオ・センタースタッフの見たもの触れたものをご紹介します。

突撃講師インタビュー!映画作りに味をしめた青春時代。【竹村講師・前篇】

今回の突撃講師インタビューは、竹村講師にロックオン!

暑がりのため、冬でもダウンコートの下は半袖という竹村講師。ある意味小学生みたいですが、実は映画小僧でした。講師としてはまだ歴の浅い竹村講師ですが、これからはライターズバンクも担当してもらいます。

ということで、竹村講師の人となりを暴きに行ってきました。全2回の前篇です。

 

冬で、山小屋に着かなかったら、みんな死ぬかもしれない、とかそんな状況でさ。大木先生の声がさ、スターウォーズのオビ=ワンの「ルーク、フォースを使え」みたいにさ、「竹村、だから言っただろう」て聞こえたね(笑)。

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新井

竹村さんは、講師歴よりも圧倒的に生徒歴の方が長いですよね?

竹村

そう、生徒の時からを合わせると32年いますよ。通い出したのが、18歳で高校生の時からだから。

新井

32年!?
きんちゃん(本インタビューの構成と写真を担当)の年齢より上じゃないですか!

竹村

最近、言うのが恥ずかしくなってきています(笑)。

「いよう」って思っていたわけじゃくて、気がついたらって感じです。

新井

そんな恥ずかしがることじゃないですよ(笑)。
そもそも「通おう」と思ったのはどうしてなんですか?

竹村

当時、雑誌の「ぴあ」にシナリオ・センターの広告が載っていたんです。その広告を見たのがキッカケで。
それでシナリオを勉強できるところがあるんだって知りましたね。

新井 

懐かしいなぁ「ぴあ」。5年くらい前に休刊しましたもんね。

竹村

本当によく読んでて。僕は中学生で映画小僧を自認していたからね。当時は2番館、3番館って映画館があって封切り館とは別に、2本だてとかで、安く見ることが出来たんですよ。

「ぴあ」は上映している映画のタイトルの索引表があったので、見ていないタイトルにしるしつけて、ひたすらに見てたんだよね。

新井

今と違って、古い映画ってレンタルとかPCで見れなかったですもんね。昔は飯田橋にある「ギンレイホール」みたい感じな映画館が結構ありましたよね。中学生で一人、映画を見に行っていたんですか?

竹村

そうですね。誰かと行くと気を使うじゃない(笑)。
周りは年上ばかりの中、一人半ズボン履いて見に行ってね。

新井

本当に映画小僧だったんですね(笑)。もともとシナリオを書いてはいたんですか?

竹村

書いてましたよ。

沢山見ていた中でもクロサワ映画の「用心棒」に衝撃を受けてね、「自分で映画を作りたい」と。

新井

「用心棒」は今見ても面白いですよね

竹村

そうそう。用心棒を見て「日本映画にもこんなに凄いのあるの?」って思ってね。
当時は日本映画が人気ない頃で、僕自身ほとんど見ていなくて。ジョージルーカスなんかも「黒澤映画を見ると映画を作りたくなる」なんて言っているじゃない。

僕もクロサワ映画で自主映画を撮りましたから。だからねぇ…僕は分かり易いヤツなんですよ(笑)。

 

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新井

影響されまくりですね(笑)。どんな映画だったんですか?

竹村

用心棒が「荒野の用心棒」になったわけじゃない?自分の場合は、その刑事版みたいなものです。新宿駅の西口の地下通路でモデルガンを持ってさ、8ミリで撮影して。 

新井

今そんなことをやったらさ、多分…。おまわりさんに補導されちゃいますね(笑)。やっぱり、やっていて楽しかったんですか?

竹村

楽しかったねぇ。それで人生ちょっと狂ちゃったかもしれない(笑)。

新井

ははは(笑)。

「桐島部活やめるってよ」の神木くん達みたいな感じですね

竹村

そうそう。本当にそうだね。

高校入学して映画部なかったから、作りましたからね。学校から予算も貰えるし、友達に声かけて「映画研究部やろうよ」って。

新井

その部活ではどんな映画を作ったんですか?

竹村

高校入ってからも、やっぱり黒澤明でねぇ…。用心棒の学園版で、「学園の用心棒」っていう(笑)。

新井

ははは(笑)。タイトルもそのまま。

竹村

文化祭で上映して、それが大ヒットしたんですよ。
上映後、出演した人たちが、映画中のあだ名で呼ばれたりなんかして。用心棒だとさ、「俺は桑畑三十郎だ」って言うじゃない。学園の用心棒はさ、「俺は青空雲太郎だ」って言うんだよね(笑)。その時演じたヤツ、学校で「雲太郎」て呼ばれてたね。

新井

知らない人に「あっ雲太郎!」みたいな。有名人みたいな感じですね。それってかなりスゴい事ですね。

竹村

味をしめちゃったよね(笑)。
それでさ、黒澤の関連本なんかを読むと「シナリオが書けないと映画監督にはなれない」なんて書いてあるとねぇ…。

新井

シナリオは稲作でいうところの土だ、みたいなことを確かおっしゃってましたよね。
それで本格的に書かずにはいられないと(笑)。シナリオ・センターに通うことにしたのは「ぴあ」と「黒澤明」がきっかけなんですね。

竹村

そうね。シナリオ・センターってさ、お金がそこまで掛からなくて。そこがまた良くてね。高校生でもお小遣いでなんとかなるじゃない。

新井

確かに、今でも中高生が受講していますからね。他の習い事と比べたら割とはじめやすいかも。
親子さんにも相談したりしたんですか?

竹村

特にしなかったかなぁ…。バイトして自分のお金で通っていたし、アレコレ言ってくる親ではなかったから、「ああ、そう」くらいな感じだったかな(笑)。

一人で黒澤映画3本立てとか、中学生で見に行くって言っても「へぇー」くらいのリアクションでしたから。

新井 

いい距離感ですね~最初に受講した講座って何ですか?

竹村 

シナリオ8週間講座だと思うんだけど、定かじゃないんですよ。

当時ね、「3日間」の基礎の講座があったと思うんだよねぇ…。

新井 

「3日」?…ですか。それは聞いたことないなぁ…。

でも、新井一は試行錯誤を色々していただろうから、あり得ない事はないかも…、でも流石に「3日」どうだろう?

竹村 

後藤先生が講師だったことは覚えているんだけどね。
当時の日記が押し入れにあるはずだから、それを見れば分かるかもしれないけど(笑)。

新井 

18歳の時の竹村少年の記録がつづられたね(笑)。
新井一に習った事もあるんですか?

竹村

その時に講義を受けた記憶はあるんだけどね。ハッキリとは覚えていないけど後藤先生の代講だったのかなぁ…。

ただ、新井先生が当時、日曜日に戯曲講座をやられていて、その時のことはよく覚えています。

新井 

もともと新井一は戯曲を書いていましたから。

竹村

そうそう。僕は大学出てから、芝居を始めたんだけど、戯曲の書き方は新井先生に習ってたんですよ。劇団を旗揚げしたこともあったから。初めて書いた戯曲は新井先生に読んでいただきました。140枚。しかも当時だから、手書きでね。

新井 

140枚! 本当に読んだのかな?

竹村

どうだろう?(笑)。

でも、内容にもキチンと言及して頂いてました。きっと、ちゃんと読んでくれたんだと思います。感激しましたよ。今講師としての立場から見ても、スゴいですよね。

新井 

より実感しますよね。

竹村

いくら自分の生徒さんでも、手書きで140枚持ってこられても…、なんて(笑)

 

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新井 

(笑)。その戯曲は上演したんですか?

竹村

しましたよ。自分が作・演出を担当で。

役者はみんな自分より年上のなかで本打ちとか、お金を払ってもらって見に来てもらうってこととか、怖かった部分もありましたけどね。でも新井先生の言葉があったから「間違いないはず」だって、自信を思ってました。

 新井

何言われても、怖くない!みたいな(笑)
その後、劇団はどうだったんですか?

竹村

結果、演劇を8本やって、その間に1本自主映画を撮りました。その映画がまた大変だったんだね。劇団も行き詰まっていたから。劇団って4本やると、一区切りなんだよね。それまでに売れないと…というのが実感としてあって。

 新井

確かに、1本目は勢いでやる、これはありますよね。2本目もこの勢いで、3本目が勝負!でやってみてダメだと…ね。

竹村

「またやるの?」って。そうなってくるんですね(笑)。

 新井

ちょっとマンネリ感が…(笑)。

 竹村

そうそう。自分は当時はまだ若かったし、演劇が出来なくなったら、自分の人生おしまい、くらいに思い詰めていましたからね。

そんな時に作家集団の大木先生のゼミでプロットを発表して、すごくウケたものを思い出して。ダイハードと勝新太郎がやった最後の座頭市を見て、書いたシナリオでね。「バトルマウンテン」というタイトル(笑)。

 新井

「バトルマウンテン」?それはどういう映画だったんですか?

 竹村

アクション映画で、大学の山岳部が登山に行くと、連合赤軍がいる現場に遭遇して、殺し合いになるという…(笑)。

 新井

ははは(笑)

 竹村

どれだけ、ゼミでのびのび書いているんだよって(笑)。

そこから一年くらいかけて撮影してね。今でも覚えていますね。大木先生が「こんなの絶対に出来ない」ってアドバイスしてくれたことを。

先生はプロ勘定だから、いくら制作費がかかるか、分かるんですね。当時、Vシネマも一番安い映画をつくるの出さえ、5000万はかかるって…僕は劇団もいるし、人件費がタダだから、50万で…(笑)。

 新井

予算が100倍違う(笑)。

 

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 竹村

(笑)。10人以上のスタッフを引き連れて、山に撮影に行ってねぇ。僕以外に山登りの経験もない人たちだったから。その話をゼミでする度に、大木先生から「悪いこと言わないから絶対やめろ」言われて。その言葉通り、大変なことになっていくわけだけど(笑)。

 新井

大変なこと?

 竹村

そう。照明用の発電機をみんなで順番に背負うわけ。30キロくらいあるやつ。で、段々、みんな背負うのやになるから、僕が持ったら前も後ろも人いなくなっちゃってさぁ。

 新井

置いてけぼりに。

 竹村

そう。とはいえ発電機はレンタルだから置いていけないし。
天気悪くなるし。もう最悪だよね。

冬で、山小屋に着かなかったら、みんな死ぬかもしれない、とかそんな状況でさ。大木先生の声がさ、スターウォーズのオビ=ワンの「ルーク、フォースを使え」みたいにさ、「竹村、だから言っただろう」て聞こえたね(笑)。

 新井

竹村さん達が、映画になりそうなエピソードですね(笑)。

撮りきったんですか?

 竹村

そう。朝起きたら、雨が上がって晴れてさぁ~
2日かかる撮影を、1日でやり終えたよ!映画の神様が降りてきたって思ったもん。

自分の人生のターニングポイントかな。そこで、挫折していたら、きっとシナリオも映画もやめていたと思いますから。

 

映画小僧が、映画作りに目覚め、シナリオの大切さに気つくまで…そして、生死をかけての?映画撮影秘話。かなり笑えるインタビューでした。後半は、もう少し竹村講師の講師像にも迫ります。シナリオ・センターの新井でした。

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